NHK連続テレビ小説第110作「虎に翼」は、戦後の新しい時代の始まりと共に、新憲法を手に決意を新たにする主人公の物語からスタートします。
伊藤沙莉さん演じるヒロインは、日本初の女性弁護士兼裁判官として社会に影響を与える役割を担います。
映像作家シンヤマザキの手によるオープニング映像、米津玄師の感動的なメロディと歌詞が物語の希望に満ちたテーマを深く表現しています。
このドラマは、女性の社会進出の重要性と平等・自由を強調し、視聴者に新たな視点を提供しつつ、教育的要素も含んでいます。
俳優の伊藤沙莉さん好物辛いもの!主人公モデル三淵嘉子さんは?
「虎に翼」NHK朝ドラでは、甘味処で放課後におしゃべりする場面がよく出てきますね。
甘いものは老若男女問わず、ほとんどの人が好きなはずですから、やっぱり三淵嘉子さんも好物だったことでしょう。
でも、主人公を演じる俳優の伊藤沙莉(いとうさいり)さんの好物が、なんと辛いものなのです。
それもタバスコを常備していて、料理にもご飯にもよくかけて食べるそうです。
紅ショウガや辛い柚子胡椒などの辛い調味料が好きとのこと。
そしてお酒も好き。好きなお酒はハイボールとワイン。
確か卒業祝い?でビールを勢いよくのんだときののみっぷりが堂に入っていました。
辛いもの好きの伊藤沙莉さんですが、ドラマ内での「毒饅頭事件」を検証するときのおまんじゅうの美味しそうなたべっぷりも好感度アップでした。
では、主人公のモデルの三淵嘉子(みぶちよしこ)さんは、どんな食べ物が好きだったのかしら?
きっとドラマが進むにつれて、寅子(ともこ・主人公の名まえ)が大好きな食べ物が出てくるはずなのでは?と、期待しながら見ています。
ドラマのモデル三淵嘉子さんの名古屋時代と「なごやめし」
三淵嘉子さんは、名古屋地裁で初の女性判事となり、お仕事されていた時代があり、ロケが「名古屋市市政資料館」で行われています。
名古屋でご活躍されていた時代は、終戦後の間もない時代で、当時の名古屋の復興はめざましかったといいます。
今でいう「なごやめし」を外食されていた可能性も十分あります。
ということで、三淵嘉子さんが名古屋で活躍されていた時代と「なごやめし」にせまってみました。
三淵嘉子さんが食べた「なごやめし」はいったい何だったでしょう。ご活躍されていた時代とともに探っていきます。
三淵嘉子さんはどんな人?明治大学が語るエピソード
明治大学法学部を1938(昭和13)年3月卒業
明治大学法学部を1938(昭和13)年3月に卒業(卒業式で総代を務めた)。
「小学校を卒業して以来、異性と交流がなかった学生にとって、互いに興味は持っていても話しかける勇気がなかったのです。
女子学生は教室の前方に集まって座り、授業を受ける一方で、放課後も女子同士で行動していました。
そのため、女子学生たちはまるで男子学生の勉強の場を借りているかのように感じていました。」
と当時の勉学の様子について語っておられます。
1940年(昭和15年)弁護士登録/女性弁護士が誕生
1年半の弁護士補修習を第二東京弁護士会で完了し、1940年(昭和15年)6月には弁護士として登録しました。
これにより、ついに女性弁護士が誕生しました。
しかし、1941年(昭和16年)に第二次世界大戦が始まると、民事事件の数が大幅に減少し、弁護士としての活動はほとんど行えなくなりました。
そのため、嘉子は1940年(昭和15年)7月からは母校の女子部法科で助手として、1944年(昭和19年)8月には助教授として後進の教育に専念しました。
1945年8月終戦/東京地裁民事部判事補
1949年(昭和24年)6月に東京地裁民事部で判事補として任命された嘉子は、女性裁判官としては日本で2番目の採用例でした。
女性裁判官第1号および女性検察官第1号は、同年4月に採用された石渡満子(明治大学専門部女子部・法学部卒)と門上千恵子(九州帝国大学法文学部卒)でした。
これらの女性たちは戦後初めて男性と共に司法研修所で司法修習を受けた者たちでした。
1952年(昭和27年)名古屋地裁/初の女性判事
嘉子はその年の5月から約6ヶ月間、アメリカの家庭裁判所を視察し、帰国後の1952年(昭和27年)12月に名古屋地裁に異動し、そこで初の女性判事になりました。
その後東京地裁・同家裁に移り、民事裁判・少年審判を担当。
「私は男女が差別される時代に育ったせいか、建前論を主張するよりは女性が実績を上げて社会を納得させることが大切だ」と考えて執務に励んだのだそうです。
1972年(昭和47年)女性初の裁判所所長
1972年(昭和47年)6月に新潟家庭裁判所の所長に就任し、これは女性としては初の裁判所所長でした。
その後、浦和家庭裁判所の所長を1973年(昭和48年)11月から1978年(昭和53年)1月まで務めました。
続いて横浜家庭裁判所の所長に1978年(昭和53年)1月から就任しました。
1979年(昭和54年)11月13日に定年退官
そして、1979年(昭和54年)11月13日に定年退官しました。
彼女は全国各地で積極的に講演を行いましたが、その目的は少年事件や家事事件に対する一般社会の関心を高めることにありました。
特に少年問題については、家庭裁判所に事件が持ち込まれる前に、家庭や社会が問題に対して理解を深め、協力することが非常に重要だと彼女は考えていたのです。
退官後も要職をいくつも歴任しています。
1984年(昭和59年)5月28日に69歳で亡くなりました。
彼女の葬儀と告別式は6月23日に青山葬儀所で行われ、約2000人の人々が参列して故人を悼み、別れを惜しみました。
(略歴とエピソードは明治大学の明治大学史資料センター所長さんのお話を参考にさせていただきました)
なごやめし/三淵嘉子さんも食べたかも??
◆なごやめしの代表ひつまぶし
1952年(昭和27年)12月に三淵嘉子さんは名古屋地裁に異動し、そこで初の女性判事になりました。
三淵嘉子さんも食べたかも??ということで名古屋の名物をご紹介。
「なごやめし」とは何?というと
「なごやめし」という言葉を聞いたことがありますか?
これは、名古屋市およびその近郊で広く愛され、受け入れられている地域特有の料理を指します。
その代表的なものに、味噌を豊かに使った「みそかつ」、唐辛子でスパイスを効かせた「手羽先」、そして豪華なうなぎの蒲焼を細かくほぐして混ぜた「ひつまぶし」があります。
これらは名古屋の家庭や飲食店で親しまれているメニューで、訪れる人々に独特の食文化を体験させてくれます。
現在「なごやめし」とよばれるのは22種類です。
なごやめし・22種類(人気投票を参考に選んだ22品)
- ひつまぶし
- みそ煮込みうどん
- 串カツ
- 手羽先
- きしめん
- あんかけスパ
- 天むす
- どて煮
- 鉄板スパ
- 台湾ラーメン
- みそおでん
- 小倉トースト
- 海老フライ
- 鬼まんじゅう
- カレーうどん
- モーニング
- 名古屋コーチン
- ういろう
- 守口漬け
- えびせんべい
- 台湾まぜそば
- とんちゃん
戦後数年の時期には、すでに外食としてあったなごやめしには、味噌串カツ、味噌カツ、みそ煮込みうどん、宮きしめん、みそおでん、名古屋コーチン、うな丼あたりかと思われます(絶対とはいえないのでつっこみしないでね)。
赤味噌は愛知の岡崎付近を中心に生産され、愛知県内および東海圏で食されていました。
多分、名古屋地裁で判事をされていた三淵さんも、味噌串カツ、味噌カツ、みそ煮込みうどん、宮きしめんといった食事をされていたのではと想像します。
赤味噌はからくないです・赤味噌の特徴
◆味噌串カツ
赤味噌は、その名の通り、色が赤褐色から濃い赤色をしているのが特徴です。
豆味噌ともいいます。
風味は濃厚で、熟成期間が1~3年と長いために深い旨味があります。
◆味噌カツ
豆みそは長期熟成することでこのうまみが特に凝縮されているのが特徴で、うまみ成分=グルタミン酸含有量は100g中、約3800㎎と米みそ( 同1800㎎)や麦みそ(同1900㎎)の実に2倍にもおよびます。
熟成期間が飛び抜けて長いため、品質が安定していて長期日持ちがします。
また熱にも強く煮込んでも風味が飛んでしまわないのも特徴です。
赤味噌特有の豊かな味わいは、肉や野菜との相性が良く、煮込み料理や味噌汁、たれなどに使用されます。
赤味噌の主な産地は日本の中部地方です。
特に愛知県が有名で、名古屋の味噌料理としても知られています。他にも岐阜県や三重県など、中部地方を中心に生産されています。
なごやめしおススメ/朝ドラ「虎に翼」ロケ地巡り
◆なごやめし・みそ煮込みうどん
朝ドラ「虎に翼」のロケ地巡りのあとは、「なごやめし」をぜひどうぞ。
三淵嘉子さんが名古屋で活躍なさっていた当時からある「なごやめし」は多分、
味噌串カツ、味噌カツ、みそ煮込みうどん、宮きしめん、みそおでん、名古屋コーチンでしょう。
名古屋在住の管理人のおすすめは、味噌串カツ(または味噌カツ)、みそ煮込みうどん、宮きしめん。
味噌カツのおすすめのお店「味処 叶」
味噌カツは「味処 叶」の創始者の「杉本利資」さんが考案者とされます、創業は昭和24年’(1949年)。
栄駅から徒歩約3分、メルサ栄の裏手路地にお店があります。
- 所在地:愛知県名古屋市中区栄3丁目4-110
- 営業時間:11:00~14:30 17:00~20:30 ※現在は昼営業のみ
- 定休日:月曜日
- 味噌カツ発祥の店「味処 叶」
味噌煮込みうどんのおすすめ「山本屋本店」
名古屋市で有名な「山本屋本店」は、味噌煮込みうどんで知られる老舗の飲食店です。
山本屋本店は1901年に創業され、名古屋の食文化を代表する店の一つとして長い歴史を持ちます。
この店の最大の特徴は、濃厚でコクのある赤味噌ベースのスープで煮込んだ「味噌煮込みうどん」です。
具材には、豚肉、ねぎ、かまぼこ、豆腐などが使われ、それらが味噌の風味豊かなスープと絶妙に組み合わされています。
山本屋本店は名古屋市内に複数の支店を持ち、どの店舗も温かみのある雰囲気で、地元の人々はもちろん、観光客にも愛されています。
- 大門本店(おおもんほんてん)所在地:名古屋市中村区太閤通6-5(大門交差点西
- 営業時間:11:00〜22:00(ラストオーダー21:30)<ランチタイム>11:00〜15:00(平日;月〜金)
- 定休日:年中無休
- 提携駐車場 15台(店舗の西側約100m)
- 公式サイト:山本屋本店
※名古屋駅付近、栄駅付近に数か所、そのほかの地域にも支店あります。
宮きしめんのおすすめ
◆宮きしめん
名古屋名物の一つであるきしめんは、平たくて幅広のうどんで知られています。
その中でも「宮きしめん」は、特に有名な店舗で創業は大正12年。
三淵嘉子さんが名古屋で活躍なさっていた当時に、近くにお店があったかもしれません。
熱田神宮の境内にある「宮きしめん神宮店」はよく知られています。
宮きしめんのメニューは、シンプルながらも地元の食材を活かした料理が特徴です。
きしめん自体は滑らかな食感と噛みごたえがあり、ダシは関西風であっさりとしているのが特徴。
定番のトッピングにはネギや天かす、刻んだ海苔がありますが、季節や特別な日には限定メニューも提供されることがあります。
店内は伝統的な和の装飾が施されており、居心地の良い空間を提供しています。
また、スタッフの心温まる接客も、訪れる人々に好評です。
- 宮きしめん 伊兵衛の所在地:愛知県名古屋市熱田区沢上二丁目5番24号(『宮きしめん本店』の隣
- 最寄り駅:金山総合駅
- 営業時間:11:00~14:00/17:00~20:00
- 定休日:月曜日(祝日の場合は翌平日)・年末年始・2月第2週月火水曜日・6月第1週月火曜日
- 宮きしめん伊兵衛公式サイト
ひつまぶし(うな丼やうな重を含む)
「ひつまぶし」という言葉は、愛知県名古屋市の郷土料理であるうなぎの蒲焼きを細かく刻んでご飯に乗せた料理を指します。
この料理名は、名古屋の料理店「あつた蓬莱軒」が大正時代に考案しました。
具体的な「ひつまぶし」という名称の起源は明確ではありませんが、一説によると、「ひつ」とは飯櫃(ごはんを入れる木製の容器)を、「まぶし」は散らすことを意味しており、その名がついたとされています。
そのため、具体的に「ひつまぶし」という言葉が広く使われ始めたのは、おそらく昭和初期から中期にかけてと考えられます。
- あつた蓬莱軒本店の所在地:愛知県名古屋市熱田区神戸町503
- 営業時間:11:30~14:00(L.O) 16:30~20:30(L.O)
- 定休日:毎週水曜日・第2、第4木曜日(祝日は営業、振替休みあり)
- 駐車場:40台
- あつた蓬莱軒本店サイト
名古屋戦後復興を振り返る/名古屋地裁で初の女性判事の時代(1952~)
三淵嘉子さんが名古屋地裁で初の女性判事となり活躍されていた時代は、1952年(昭和27年)からの4~5年あまりです。
三淵姓になるのは、1956年のことで、東京地裁の判事になるまでの期間です。
第二次世界大戦が1945年8月に終わったので、その後数年たってのことですね。
まだ、手回し式の脱水機能がついた洗濯機(昭和30年代~40年代)が発売されていないような時代です。
そのころは、井戸からくみ上げた水でたらいで洗濯をしていたんですね。
1955年の佃島(東京都中央区)では、物干しざおをたたくかかげて洗濯ものを干していました。
これは名古屋市の大須観音のやきそば屋さん。お母さんも気軽に外食っていう場面ですね。
愛知県には大きな川があるので、材木は昔ながらの方法で川岸に集められています。
スクーターが街中を走るようになってきましたが、舗装されていない道がほとんどです。
第二次世界大戦では名古屋は甚大な被害をうけました。
三淵嘉子さんが活躍された名古屋地裁の時代は、名古屋が戦後の復興に突き進んでいるときでもありました。
第二次世界大戦での名古屋の被害
第二次世界大戦中、名古屋市は重要な軍事および工業拠点として、連合国軍による激しい空襲の対象となりました。
特に、名古屋城は1945年5月14日の大空襲では1時間以上にわたる爆撃で深刻な被害を受けました。
この空襲は、夜間に行われ、市内に大量の焼夷弾が投下されたため、名古屋城の木造建築は燃えやすく、大火となり、城の多くの部分が焼け落ちました。
名古屋城は、元々1609年に、徳川家康の命により築城されました。
城は戦略的な要塞であり、戦時中には一部が軍の司令部として利用されていました。
名古屋城が焼が焼けただけではありません。
1944年から1945年にかけての名古屋市への主な空襲では、特に1945年の3月19日の大空襲(名古屋大空襲)で顕著な被害がありました。
第二次世界大戦中、名古屋市は主要な軍需産業都市であり、日本の航空機生産の約40%を担っていました。
このため、東京と同様に例のない激しい空襲の対象となり、終戦までに合計38回の空襲が行われ、延べ1,973機の航空機の攻撃をうけました。
これらの空襲によって、名古屋城を含む市中心部のほとんどの建物が破壊され、市の約1/4にあたる3,860ヘクタールが焼失しました。
また、被災した市民は約52万人に上り、家屋の被災戸数は13万戸に達するなど、甚大な被害を受けました。
また、大規模な工業施設も甚大な被害を受け、市の基盤と経済に深刻な影響を与えました。
名古屋市は他都市にくらべ戦後の復興がはやかった
※名古屋テレビ塔、日本初の集約電波塔は、昭和29年(1954年)に戦後の復興と都市計画の一環として建設されました。この塔は、テレビ放送のための電波発信と観光目的で設計されたものです。
名古屋の戦後復興が速やかに進んだ背景には、いくつかの要因があります。
以下に主な理由を簡潔にまとめてみました。
1. 経済の再構築と産業の復活
戦後、市は急速に産業基盤を再建しました。特に自動車産業や航空産業が復興の原動力となり、これが経済回復を加速させました。
2. 都市計画とインフラの整備
名古屋市は戦後、都市計画において大規模な道路網の整備を進め、公共交通の充実を図りました。代表的なものに100メートル道路(現在の広小路通)があり、これは市内の交通流動を大幅に改善しました。
3. 市民と行政の協力
復興においては、市民一丸となっての支援と協力がありました。市民の積極的な参加と行政の効率的な対応が、迅速な復興を可能にしました。
4. 文化的・社会的復興の促進
物質的な復興だけでなく、文化活動や教育の振興も重要な役割を果たしました。これにより市民生活の質が向上し、社会全体の活力が回復されました。
名古屋の戦後復興は、これらの複合的な要因により他の都市よりも速やかに進みました。
名古屋の名所100メートル道路は本当は7都市にできるはずだった
当初、100メートル道路は7つの都市で計画されていました。
ですが、最終的には名古屋市の2本と広島市の1本だけが完成しました。
名古屋市は計画の策定を迅速に進め、土地区画整理事業を用いた事業手法を採用しました。
終戦直後から測量器具を大量に調達し、速やかに仮換地を定めて建築制限を施しました。
さらに、戦時中に作られた帯状の建物撤去空地を地権者に返さず、広幅員街路の用地として活用しました。
名古屋市の100メートル道路
名古屋市の100メートル道路には、平均幅員112メートルの久屋大通と、平均幅員100メートルの若宮大通があります。
これら2つの道路は主に防災目的で計画され、名古屋市の中心部で交差し市街地を4つに分割しています。
これにより、災害時の延焼や被害の拡大を防ぐことが可能です。
また、これらの広い道路は、災害時の避難路や復旧作業の拠点として機能します。
なぜ名古屋市はは他都市に類を見ない速さで戦後の復興を進めることができたのか
名古屋市は横浜市、大阪市に次ぐ政令指定都市へと発展し、中京圏の政治・経済・文化・交通の中心となっています。
ではなぜ名古屋市が戦災復興都市計画を進め、大都市へと発展させることができたのでしょう。
復興計画の中心人物・田淵寿郎さんの功績
名古屋市の戦災復興事業を語る上で、避けて通れないのが、田淵寿郎(たぶちじゅろう)さんです。
1890年(明治23年)3月、広島県の回漕問屋で生まれた彼は、第5高等学校(現在の熊本大学)を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)工学部に入学し、土木工学を専攻しました。
卒業後、内務省に就職し、琵琶湖の利水計画や淀川低水路計画など、国内の主要な河川事業に関わり、多大な功績を残しました。
1938年(昭和13年)、日中戦争が続く中、中国大陸に渡り、上海や南京などの戦災地の復興指揮を執りました。
翌1939年には、名古屋の土木出張所長に就任し、木曽三川の治水や今渡ダムの調整を含む河川工事に従事しました。
1942年(昭和17年)には再び中国に渡り、黄河大洪水の復旧や北京西郊の新都市計画の立案に携わりました。
終戦から2カ月後の1945年10月10日、佐藤正俊名古屋市長の強い希望により、彼は内務省での経験を活かして名古屋市の戦災復興を全面的に指揮する技監として招かれました。
この技監という役職は、彼の着任時に新設されたもので、水道や交通などを含む関連部局の統括を行う技術助役としての役割を担いました。
「田淵構想」により都市計画がすすむ
「田淵構想」と称される名古屋市の戦後都市計画は、100メートル道路の整備と大規模な墓地の移転を特徴としています。
当時としては非常に革新的な計画であり、多くの反対意見もあったものの、今日では名古屋の将来の都市開発を見据えた画期的な計画と評価されています。
この復興計画は、単に戦時のダメージを修復するだけでなく、現代の名古屋市の成長と発展の礎を築いたと言えます。
復興計画はわずか2年でほぼ完成
終戦後、日本が混乱の最中にあった時期、名古屋市は未来を見据えた壮大な構想を立てて復興事業を完成させました。
この成功の鍵は、関東大震災の復興手法を参考にして、市民や市議会が土地区画整理事業を戦後の最優先課題と捉え、早期に行動に移した先見の明ある決断にありました。
さらに、土地区画整理事業に精通していたことが成功に寄与し、他の都市がドッジ・ラインによる予算削減で事業を縮小する中、名古屋市は計画の90%を遂行していたため、大きな変更なく事業を進めることができました。
これは「計画を立てただけでは意味がなく、実行に移すことが重要である」という原則を具体的に実施した結果であり、わずか2年で復興事業を大きく進展させ、国からの補助金削減の影響を受けずに基本的な復興を完遂させることができたのです。
田淵寿郎は名古屋市の名誉市民であり、彼の大胆な計画と決断力、強力なリーダーシップが名古屋を現在の大都市へと導く戦後の都市計画を成功に導きました。
すばらしい決断力と実行力ですね。
名古屋の戦後の復興については「一般社団法人 建設コンサルタンツ協会の資料を参考にさせていただきました」
朝ドラを2倍楽しむ/虎に翼/好物は何?名古屋にいた三淵嘉子さんとなごやめし・まとめ
2024年の朝ドラ「虎に翼」の主人公、三淵嘉子さんが名古屋地裁にお勤めだった当時の名古屋の風景と、きっと食べていらしたであろうなごやめしを予想してみました。
その当時からあるなごやめしは、赤味噌(豆味噌)を使った料理、またはうなぎ、きしめんであったはずです。
また創業が大正以前の老舗で、現在も受け継がれている味です。
三淵嘉子さんが名古屋にいらしたときに想いをはせて、ロケ地巡りのあとは名古屋名物を堪能してくださいね。
◆宮きしめん神宮店のメニューや営業時間
◆朝ドラ「虎に翼」のロケ地へ・愛知名古屋の聖地巡礼・場所行き方
◆あつた蓬莱軒でひつまぶし、予約は?アクセス駐車場
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