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母の納骨と富士山信仰をめぐる旅・昭和を生きた母そして富士山

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母親が93歳で他界しました。

昭和という激動の時代を懸命に生き抜いた母の生涯は、まるで富士山の雄姿のように、私の心に深く刻まれています。

横浜のバラ園で眠る母を後に、私は富士の山へと向かいました。

かつて静岡県清水に住んでいたことを思い出し、富士山をめぐる旅で母を偲びました。

時代を超えて繋がる心の風景を、ここに綴ります。

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母の死と富士山の記憶

93歳の生涯を閉じた母は、穏やかな晩年を過ごしたのち、静かに息を引き取りました。

葬儀は母の遺言通り、近親者のみで見送る家族葬です。

そして、永眠の地として選んだのは、横浜にある寺院が運営するバラ園の一角にある樹木葬でした。

全ての手配を晩年、一緒に暮していた妹が行ってくれました。

ありがとうございます。

生前、花が好きだった母を偲ぶのにふさわしい場所だと感じました。

納骨を終え、横浜の墓地から名古屋へ帰る道中、私は静岡県清水市へと車を走らせました。

そこは、かつて私が子供の頃に母と共に過ごした場所であり、戦争中は母にとって青春時代を過ごした地でもありました。

清水市に住んでいた頃、私たち家族の暮らしは常に富士山の存在と共にありました。

雄大な姿を見せる富士山は、私たち家族を見守り、時には励ましてくれる存在のようでした。

母はよく、戦時中の清水大空襲の話を聞かせてくれました。

港が夜空を赤く染めるほど燃え上がり、翌日には焼け焦げた人間の塊があちこちに転がっていたという、生々しい体験を語ってくれました。

横浜出身の母にとって、清水市で過ごした日々は、戦争という暗い影に覆われたものであったでしょう。

それでも、富士山は変わらぬ雄姿でそこにあり続け、母の人生を見守っていたに違いありません。

今回の旅は、母の納骨を機に、かつて母と眺めた富士山を再び巡り、その雄大な自然と信仰を通して母を偲び、死を弔うためのものです。

富士山は、古くから信仰の対象として崇められてきました。人々は富士山に神聖な力を感じ、その姿に畏敬の念を抱いてきました。

母の人生と富士山信仰、そして私自身の旅。

これらが織りなす物語を通して、読者の皆様にも、死という普遍的なテーマと向き合い、自分の人生や家族とのつながりについて考えるきっかけを与えられれば幸いです。

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母の人生と昭和という時代

母は昭和6年(1931年)、横浜で9人兄弟の長女として生まれました。

生まれたその年に満州事変が勃発し、幼少期から戦争の影が日本に忍び寄る激動の時代を生きてきました。

日中戦争、そして太平洋戦争と、戦争は激しさを増し、母の青春時代は戦争によって翻弄されていきました。

戦争中は、一家で静岡県清水市(現在の静岡市清水区)に疎開していました。

母は、そこで女学校に通いながら、幼い兄弟の面倒を見ていました。

学徒動員で工場勤務を経験したこともあり、勉強する時間もないまま、戦争に明け暮れる日々を送っていたそうです。

食糧難の時代、芋のつるなどを食べて飢えをしのいだという話も聞きました。

特に、清水市で経験した大空襲のことは、母から繰り返し聞かされました。

真夜中に空襲警報が鳴り響き、港の方角が真っ赤に燃え上がっていたこと、翌朝には焼け焦げた人の塊があちこちに転がっていたことなどを、まるで昨日のことのように語っていました。

幼い私にとって、母の言葉は戦争の悲惨さを肌で感じる貴重な体験談でした。

終戦後、母は横浜に戻り、懸命に働きながら家族を支えました。

母の兄は兵役から戻ったものの、過酷な労働と食料難の末、若くして亡くなってしまいました。

母は、兄の分まで生きようと、幼い兄弟、姉妹のために懸命に働いたそうです。

戦後の混乱期、そして高度経済成長期を経て、母は激動の昭和という時代を力強く生き抜いてきました。

晩年は、横浜の病院で静かに過ごしていました。

長年、苦労の連続だった母の人生でしたが、最期は穏やかな日々を送ることができたと思います。

93年の生涯を振り返ると、戦争や貧困など、多くの困難を経験してきましたが、決して希望を捨てずに前向きに生きた母の姿が思い出されます。

富士山を巡る旅:信仰と風景を通して母を偲ぶ

母の眠る横浜を出発し、私は富士五湖を目指しました。

今回の旅のルートは、横浜→富士五湖→五合目冨士山小御嶽神社→富士山本宮浅間大社→清水の三保の松原です。

富士五湖を東から回りました。

東から順に山中湖(やまなかこ)、河口湖(かわぐちこ)、西湖(さいこ)、精進湖(しょうじこ)、本栖湖(もとすこ)です。

富士五湖周辺には、富士山信仰と深い関わりを持つ浅間神社が点在しています。

各地の浅間神社を巡り、その歴史や特徴を知ることで、富士山信仰への理解を深めたいと思いました。

山梨県側の途中から富士スバルラインを登り、五合目にある冨士山小御嶽神社(ふじさんこみたけじんじゃ)に向かいました。

標高2390メートルに位置するこの神社は、富士山登山の安全を祈願する人々にとって重要な場所です。

五合目から見上げる富士山の姿は、まさに神々しく、その雄大さに圧倒されました。

眼下に広がる雲海、そして雄大な富士山の姿。

その風景を眺めながら、私は母の思いを想像してみました。

「戦争が終わって、富士山が見えた時は、本当に嬉しかった」と考えたかもしれません。

母にとって富士山は、戦争という暗い時代を乗り越え、平和な未来への希望を象徴する存在だったかもしれません。

そして訪れたのは、富士山本宮浅間大社です。

ここは、全国に約1300社ある浅間神社の総本社であり、富士山信仰の中心地として、古くから多くの人々の信仰を集めてきました。

境内には、富士山の湧水である「湧玉池(わくたまいけ)」があり、その清らかな水に触れると、心が洗われるような感覚を覚えました。

富士山信仰において、山は信仰の対象であると同時に、死者の魂が集まる場所と考えられています。

富士山に登ることは、故人を偲び、その霊を慰めるための行為でもありました。

私は、五合目から富士山を見上げ、心の中で母に語りかけました。

「お母さん、安らかに眠ってください」。

旅の最後は、清水の三保の松原です。

ここは、天女が羽衣をかけたという伝説が残る景勝地であり、富士山を背景に広がる松林の美しさは、多くの芸術作品にも描かれてきました。

三保の松原を歩きながら、かつてこの地で暮らしていた私の子供のころを思い出しました。

富士山を巡る旅を通して、雄大な自然と触れ合い、人々の信仰に触れる中で、少しずつ心が癒されていくのを感じました。

今回の旅は、私にとって、母への感謝の気持ちを新たにし、前向きに生きていく決意を固めるための大切な時間となりました。

そして、富士山信仰を通して、自然と人間の繋がり、そして生と死という普遍的なテーマについて深く考えることができました。

富士山信仰:自然と人間の繋がり

富士山は、その美しい姿と雄大なスケールで、古くから日本人の心を惹きつけてきました。

そして、単なる山としてではなく、神聖な存在として信仰の対象となってきた歴史があります。

富士山信仰の歴史は、平安時代後期に遡ります。

当時、富士山は噴火を繰り返す活火山であり、人々はその圧倒的な自然の力に畏敬の念を抱き、神が宿る山として崇拝するようになりました。

平安時代以降、富士山信仰は徐々に体系化され、修験道の聖地としても発展していきます。

特に江戸時代には、「富士講」と呼ばれる民間信仰が広く普及しました。

富士講は、富士山を信仰の対象とし、集団で登山を行うことで、精神的な修行や現世での幸福、そして死後の救済を願うものでした。

富士講の信者たちは、厳しい修行や巡礼を通して、富士山への信仰を深めていきました。

彼らは、巡礼中に亡くなった仲間を供養するために、碑を建てたり、祭りを開催したりすることで、共同体の絆を強めていきました。

富士山信仰は、自然崇拝山岳信仰、そして死生観という、日本人の精神文化の根幹を成す要素が複雑に絡み合っています。

  • 自然崇拝: 富士山は、その雄大な姿と噴火という圧倒的な自然現象を通して、人々に畏敬の念を抱かせ、神聖視されるようになりました。 自然への畏怖と感謝の念は、富士山信仰の根底に流れる重要な要素です。

  • 山岳信仰: 山は、古来より神聖な場所、修行の場として崇められてきました。 富士山もまた、修験道の聖地として、多くの修行者が厳しい修行に励んだ場所です。 山に登ることで、心身を鍛錬し、悟りを開くという信仰は、富士山信仰にも深く根付いています。

  • 死生観: 富士山は、現世と来世を繋ぐ場所、死者の魂が集まる場所として信仰されてきました。 富士講の信者たちは、富士山に登ることで、死後の世界へ近づくことができると信じ、死への恐怖を克服しようとしていました。

現代社会においても、富士山は日本の象徴として、多くの人々に愛され続けています。

2013年には、ユネスコの世界文化遺産に登録され、その文化的・精神的な価値が国際的に認められました。

現代では、信仰という形だけでなく、登山や観光など、さまざまな形で富士山と関わる人々が増えています。

しかし、私たちが富士山から学ぶべきことは、その雄大な姿や景観だけではありません。

富士山信仰の歴史を通して、自然への畏敬の念、厳しい環境に立ち向かう人間の強さ、そして共同体の大切さなど、多くのことを学ぶことができます。

現代社会は、物質的な豊かさや便利さを追求するあまり、自然との繋がりを見失いがちです。

しかし、自然は私たち人間にとって、かけがえのない存在であり、その恩恵なしに生きていくことはできません。

富士山信仰は、自然と人間の繋がりを再認識し、自然と共生していくことの大切さを教えてくれます。

終わりに:母への感謝と未来への決意

横浜のバラ園に囲まれた樹木葬墓地。

そこに母を納め、富士山を巡る旅を終えた今、改めて母の偉大さを感じています。

幼い頃から、折に触れて母から聞かされた戦争の体験談。

清水市での空襲の夜、真っ赤に燃え上がる空。

そして、焼け焦げた人々の姿。 戦争という過酷な現実を生き抜き、戦後は9人兄弟の長女として、懸命に家族を支え続けた母。

その力強い生き様は、私の心の奥底に深く刻まれています。

今回の旅では、富士山の雄大な自然と、そこに息づく人々の信仰に触れることができました。

富士山は、古くから神聖な存在として崇められ、人々は厳しい自然環境の中で、信仰を通して生きる希望を見出してきたのです。

母もまた、戦中戦後の混乱期、そして高度経済成長という激動の時代を、富士山を心の拠り所の一つとして生き抜いてきたのかもしれません。

母の死は、私にとって大きな悲しみでした。

しかし、旅を通して、母への感謝の気持ち、そして命の尊さを改めて認識することができました。

自然の雄大さ、そして、そこに息づく生命の力強さを感じながら、私は前を向いて生きていく決意を新たにしました。

残された私たちにできることは、母から受け継いだ命を大切にし、精一杯生きることです。

人生には、必ず終わりが来ます。

しかし、それは決して終わりではなく、新たな始まりの瞬間でもあります。

母の思い出を胸に、私は未来へと歩みを進めていきます。




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プロフィール
この記事を書いた人
ゴロマル

熟年夫婦でVANLIFEを実践しようと頑張るゴロマルです。温泉ソムリエの妻よっちゃんの影響でスーパー銭湯、温泉巡りが趣味になってしまいました。ドライブ、DIY大好きです。一応、社長もやってます。ファスティング、プチ断食、筋トレで健康管理中。

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